注意点

戒名の広告が度々出てきますが、そんなものに大金を費やすくらいならば、日蓮大聖人の仏法を一人でも多くの人に語ることへ時間と労力を費やしましょう


2025年1月1日水曜日

嘘つきは泥棒の始まり

 清澄寺大衆中    建治二年正月    五十五歳御作

 新春の慶賀自他幸甚幸甚、去年来らず如何定めて子細有らんか、抑参詣を企て候わば伊勢公の御房に十住心論・秘蔵宝鑰・二教論等の真言の疏を借用候へ、是くの如きは真言師蜂起の故に之を申す、又止観の第一・第二・御随身候へ東春・輔正記なんどや候らん、円智房の御弟子に観智房の持ちて候なる宗要集かしたび候へ、それのみならずふみの候由も人人申し候いしなり早早に返すべきのよし申させ給へ、今年は殊に仏法の邪正たださるべき年か・浄顕の御房・義城房等には申し給うべし、日蓮が度度・殺害せられんとし並びに二度まで流罪せられ頸を刎られんとせし事は別に世間の失に候はず、生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ、其の上真言宗は法華経を失う宗なり、是は大事なり先ず序分に禅宗と念仏宗の僻見を責めて見んと思ふ、其の故は月氏漢土の仏法の邪正は且らく之を置く日本国の法華経の正義を失うて一人もなく人の悪道に堕つる事は真言宗が影の身に随うがごとく山山・寺寺ごとに法華宗に真言宗をあひそひて如法の法華経に十八道をそへ懺法に阿弥陀経を加へ天台宗の学者の灌頂をして真言宗を正とし法華経を傍とせし程に、真言経と申すは爾前権経の内の華厳・般若にも劣れるを慈覚・弘法これに迷惑して或は法華経に同じ或は勝れたりなんど申して、仏を開眼するにも仏眼大日の印・真言をもつて開眼供養するゆへに日本国の木画の諸像皆無魂無眼の者となりぬ、結句は天魔入り替つて檀那をほろぼす仏像となりぬ王法の尽きんとするこれなり、此の悪真言かまくらに来りて又日本国をほろぼさんとす。


 其の上禅宗・浄土宗なんどと申すは又いうばかりなき僻見の者なり、此れを申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために建長五年四月二十八日安房の国東条の郷清澄寺道善の房持仏堂の南面にして浄円房と申す者並びに少少の大衆にこれを申しはじめて其の後二十余年が間・退転なく申す、或は所を追い出され或は流罪等、昔は聞く不軽菩薩の杖木等を今は見る日蓮が刀剣に当る事を、日本国の有智・無智・上下・万人の云く日蓮法師は古の論師・人師・大師・先徳にすぐるべからずと、日蓮この不審をはらさんがために正嘉・文永の大地震・大長星を見て勘えて云く我が朝に二つの大難あるべし所謂自界叛逆難・他国侵逼難なり、自界は鎌倉に権の大夫殿・御子孫どしうち出来すべし、他国侵逼難は四方よりあるべし、其の中に西より・つよくせむべし、是れ偏に仏法が一国挙りて邪なるゆへに梵天・帝釈の他国に仰せつけて・せめらるるなるべし。


 日蓮をだに用いぬ程ならば将門・純友・貞任・利仁・田村のやうなる将軍・百千万人ありとも叶ふべからず、これまことならずば真言と念仏等の僻見をば信ずべしと申しひろめ候いき、


【通解】

 新春を喜び祝うこと、自他ともに何よりの幸せである。去年来られなかったが、どうしたことか。きっと事情があったのであろう。さて、参詣をしようと思われるならば、伊勢公の御房から十住心論、秘蔵宝鑰、二教論等の真言の注釈書を借用してきてほしい。このことは真言師が大勢騒いでいるのでこういうのである。また、摩訶止観の第一と第二の巻を携えてきてほしい。東春・輔正記などもあるであろうか。円智房の御弟子の観智房の持っている宗要集も貸してもらっていただきたい。それだけでなく、文書があるということも人人がいっていた。すぐに返す旨をいって借りてきてもらいたい。今年は、ことに仏法の邪正がただされるべき年であろう。


 浄顕の御房や義城房等には言ってください。日蓮が、たびたび殺害されようとし、また二度まで流罪され、頚を切られようとしたことは、べつに世間の罪によるのではない。生身の虚空蔵菩薩から大智慧をいただいたことがあった。日本第一の智者にしてくださいと申し上げたことを、かわいそうに思われたのであろう。明星のような大宝珠を与えられて、それを右の袖で受け取ったために、それから一切経を見たところ八宗並びに一切経の勝劣をほぼ知ることができた。


 そのうえ、真言宗は法華経を滅ぼす宗である。これは大事であるので、まず序分に禅宗と念仏宗の誤った考え方を責めてみようと思ったのである。そのわけは、インドや中国の仏法の邪正については、しばらくさしおく。日本国が法華経の正義を失って一人ももれなく人々が悪道に堕ちることは、真言宗が影の身に随うように多くの山々、寺々ごとに法華宗に真言宗をいっしょに添えて、法に説くとおりの法華経の修行に十八道という真言の修法を添え、法華経による懺悔の法に阿弥陀経を加え、天台宗の僧の潅頂の儀式に際し真言宗を正とし法華経を傍としたので、真言の経というのは法華経以前に説かれた権の教のなかの華厳経・般若経にも劣っているのを、慈覚・弘法はこれに迷って、あるいは法華経と同じ、あるいは法華経より勝れているなどといって、仏像を開眼するのにも仏眼尊と大日如来の印・真言をもって開眼供養をするために、日本国の木画の諸の像は皆、魂のない、眼のないものとなってしまった。結局は天魔が入り替わって檀那を滅ぼす仏像となってしまった。王法が尽きようとしているのは、このためである。この悪法である真言宗が鎌倉に入ってきて、また日本国を滅ぼそうとしている。そのうえ禅宗・浄土宗などというのは、また、いいようもない誤った考えの者である。


 これをいえば、かならず日蓮の命にかかわることになるであろうと承知していたけれども、虚空蔵菩薩の御恩を報ずるために建長五年四月二十八日、安房の国東条の郷にある清澄寺の道善房の持仏堂の南面において浄円房という者並びに少しばかりの大衆にこれをいいはじめて、その後二十余年の間、退転することなくいってきた。その間、あるいは所を追い出されたり、あるいは流罪されたりした。昔は、不軽菩薩が杖木等の難にあったと聞く。今は、日蓮が刀剣の難にあうことを見る。


 日本国の有智・無智そして上下のすべての人はいう。「日蓮法師は昔の論師、人師、大師、先徳にすぐれるはずがない」と。日蓮はこの不審を晴らすために、正嘉元年の大地震と文永元年の大彗星を見て考えていった。「我が国に二つの大難があるであろう。いわゆる自界叛逆難と他国侵逼難である。自界叛逆難は鎌倉に権の大夫殿のご子孫の同士打ちが起こるであろう。他国侵逼難は四方からあるであろう。その中でも西より強く攻めてくるであろう。これはひとえに信じている仏法が一国こぞって邪であるために、梵天、帝釈天が他国にいいつけて攻められるのである。日蓮を用いないでいる間は、平将門、藤原純友、安倍貞任、藤原利仁、坂上田村麻呂のような将軍が百千万人いても叶いはしない。これが真実でないならば、真言と念仏等の誤った考えを信じよう」といいひろめてきた。



法華経より低い教えを法華経の上に据えるとは、真言宗の罪は限りなく深いと言えます。