仏になる法華経を耳にふれぬれば
是を種として必ず仏になるなり
(法華初心成仏抄、御書552ページ)
【通解】
仏になる法華経を耳に触れさせるならば、
これを種として必ず仏になる。
【池田先生が贈る同志への指針】
日蓮仏法は「下種仏法」である。
衆生の生命に「仏の種」を
下ろすのだ。
相手がすぐに発心しなくとも、
必ず花開く時が来る。
その時を呼び寄せるのが、
祈りの力である。
誠意と確信を込めて語った分、
その声が種となって仏縁が結ばれ、
福徳が広がる。
ゆえに今日も、勇気凛々と対話に
打って出て、友野心の大地に
幸の種を蒔こう!
下種仏法は、語った者勝ちですね!
2018年9月29日土曜日
2018年3月8日木曜日
同苦の心
我がわかき身に親にはやくをくれて
教訓をも給はらざるらんと・御心のうち
をしはかるこそなみだもとまり候はね
(上野殿御返事、御書1509ページ)
【通解】
“自分は若い身で親に早く先立たれ、
教訓をも承ることがなかった”という、
あなた(南条時光)の御心中を
推し量ると、涙を抑えることができない。
【同志への指針】
日蓮大聖人は、若くして親を亡くした青年へ、
心に染み入る激励を重ねられた。
誠実に寄り添って同苦し、
共に祈ることが、「励まし」の根幹である。
我らには、尊敬と信頼に満ちた、
久遠よりの同志の絆がある。
苦も楽も分かち合い、
最極の誓願を共有して前進するのだ。
この創価の地涌の連帯に、
社会を蘇生させゆく希望の光がある。
一緒に苦しんでくれる人がいると、
確かに心が軽くなりますね!
教訓をも給はらざるらんと・御心のうち
をしはかるこそなみだもとまり候はね
(上野殿御返事、御書1509ページ)
【通解】
“自分は若い身で親に早く先立たれ、
教訓をも承ることがなかった”という、
あなた(南条時光)の御心中を
推し量ると、涙を抑えることができない。
【同志への指針】
日蓮大聖人は、若くして親を亡くした青年へ、
心に染み入る激励を重ねられた。
誠実に寄り添って同苦し、
共に祈ることが、「励まし」の根幹である。
我らには、尊敬と信頼に満ちた、
久遠よりの同志の絆がある。
苦も楽も分かち合い、
最極の誓願を共有して前進するのだ。
この創価の地涌の連帯に、
社会を蘇生させゆく希望の光がある。
一緒に苦しんでくれる人がいると、
確かに心が軽くなりますね!
2018年3月7日水曜日
悪には憎まれよ
●新・人間革命より山本伸一の言葉
「私は、ずいぶん、人から騙されてきました。
利用され、陥れられもしました。
弟子を名乗る者のなかにも、
そうした人間がいることを知っていました。
『あの男は下心があるから、早く遠ざけた方がよい』と
言ってくる人もいました。
それでも私は、寛大に接し、包容してきた。
心根も、魂胆もわかったうえで、
信心に目覚めさせようと、根気強く、
対話しました。
また、幾度となく、厳しく、その本質を指摘し、
指導も重ねました。
なぜか――騙されても、騙されても、
弟子を信じ、その更生に、全力を注ぎ
尽くすのが師であるからです。
それが、私の心です。
しかし、悪の本性を露わにして、
仏子である同志を苦しめ、学会を攪乱し、
広宣流布を破壊するならば、
それは、もはや仏敵です。
徹底して戦うしかない。
そこに、躊躇があってはなりません。
人を陥れようとした人間ほど、
自分にやましいことがある。
自らの悪を隠すために、躍起になって
人を攻撃する――それが、私の
三十数年間にわたる信仰生活の実感です。
だが、すべては、因果の理法という
生命の法則によって裁かれていきます。
因果は厳然です。
その確信があってこそ仏法者です。
私どもは、広宣流布のため、
世界の平和と人びとの幸福のために、
献身し抜いてきました。
しかし、悪僧や、それにたぶらかされた
人たちは、この厳たる事実を
認識することができない。
大聖人は、色相荘厳の釈迦仏を、
悪人がどう見ていたかを述べられている。
『或は悪人はすみ(炭)とみ(見)る・或は
悪人ははい(灰)とみる・或は悪人はかたき
(敵)とみる』(御書一三〇三ページ)
歪んだ眼には、すべては歪んで映る。
嫉妬と瞋恚と偏見にねじ曲がった心には、
学会の真実を映し出すことはできない。
ゆえに彼らは、学会を謗法呼ばわり
してきたんです。
悪に憎まれることは、正義の証です」
正義の証を山ほど集めましょう!
「私は、ずいぶん、人から騙されてきました。
利用され、陥れられもしました。
弟子を名乗る者のなかにも、
そうした人間がいることを知っていました。
『あの男は下心があるから、早く遠ざけた方がよい』と
言ってくる人もいました。
それでも私は、寛大に接し、包容してきた。
心根も、魂胆もわかったうえで、
信心に目覚めさせようと、根気強く、
対話しました。
また、幾度となく、厳しく、その本質を指摘し、
指導も重ねました。
なぜか――騙されても、騙されても、
弟子を信じ、その更生に、全力を注ぎ
尽くすのが師であるからです。
それが、私の心です。
しかし、悪の本性を露わにして、
仏子である同志を苦しめ、学会を攪乱し、
広宣流布を破壊するならば、
それは、もはや仏敵です。
徹底して戦うしかない。
そこに、躊躇があってはなりません。
人を陥れようとした人間ほど、
自分にやましいことがある。
自らの悪を隠すために、躍起になって
人を攻撃する――それが、私の
三十数年間にわたる信仰生活の実感です。
だが、すべては、因果の理法という
生命の法則によって裁かれていきます。
因果は厳然です。
その確信があってこそ仏法者です。
私どもは、広宣流布のため、
世界の平和と人びとの幸福のために、
献身し抜いてきました。
しかし、悪僧や、それにたぶらかされた
人たちは、この厳たる事実を
認識することができない。
大聖人は、色相荘厳の釈迦仏を、
悪人がどう見ていたかを述べられている。
『或は悪人はすみ(炭)とみ(見)る・或は
悪人ははい(灰)とみる・或は悪人はかたき
(敵)とみる』(御書一三〇三ページ)
歪んだ眼には、すべては歪んで映る。
嫉妬と瞋恚と偏見にねじ曲がった心には、
学会の真実を映し出すことはできない。
ゆえに彼らは、学会を謗法呼ばわり
してきたんです。
悪に憎まれることは、正義の証です」
正義の証を山ほど集めましょう!
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