●新・人間革命より
「仏教の極意たる『妙法』が万民必然の生活法則たることを、
科学的に実験証明しよう」(注1)――それが、牧口常三郎の
企図であった。
そして、妙法は、「数万の正証反証(幸不幸)の累積によつて、
単なる哲学的なる抽象概念としての真理たるに留まらず、
生活の実相に表はれる生活力の限りなき源泉」(注2)で
あることを実証したのである。
つまり、日蓮大聖人の仏法は、「百発百中の生活法則たることが
何れにも何人にも証明し得ることゝなつた」(注3)のだ。
「一切は現証には如かず」(御書一二七九ページ)である。
広宣流布実現への力は、百万言の理論よりも、一つの実証にこそある。
さらに、牧口は、こう述べている。
「失礼ながら僧侶方の大概は御妙判と称して御書やお経文に
よつて説明はして下さるが、現証によつて証明して下さらないのを
遺憾とする。
しかも川向ひの火事を視るが如く真理論でやるが、日常生活に
親密の関係の価値論でそれをやらないから無上最大の御法も
十分に判らう筈がない」(注4)
実生活において悩み苦しむ人に徹して関わろうとせず、
苦悩を乗り越える道が仏法にあることを、大確信をもって
訴えられぬ僧侶への、鋭い指摘といってよい。
また、彼は、仏法の法理の上から、魔が競い起こらぬ宗門の
信心の在り方に疑問を投げかけている。本当の信心があれば、
魔は怒濤のごとく競い起こるものであるからだ。
「日蓮正宗の信者の中に『誰か三障四魔競へる人あるや』と
問はねばなるまい。そして魔が起らないで、人を指導してゐるのは
悪道に人をつかはす獄卒』でないか。然らば魔が起るか起らないかで
信者と行者の区別がわかるではないか」(注5)
宗門も含め、日本の仏教各派が宗論を回避し、教えの高低浅深を
問うことなく、もたれ合っていた時代のなかで牧口は、宗教の検証に
着手し、宗教革命の烽火を上げたのである。
それは、宗教が人間の幸・不幸を決するとの強い確信からであった。
■引用文献
注1~5 「大善生活実証録」(『牧口常三郎全集10』所収)第三文明社
いつまでも未熟でいようとする自分を叱咤しながら広宣流布を進めましょう!