注意点

戒名の広告が度々出てきますが、そんなものに大金を費やすくらいならば、日蓮大聖人の仏法を一人でも多くの人に語ることへ時間と労力を費やしましょう


2025年8月10日日曜日

唱法華題目抄(日蓮大聖人御書全集 新版7ページ)

 ゆえに、阿竭多仙人は十二年が間恒河の水を耳に留め、耆㝹仙人は一日の中に大海の水をすいほす。かくのごとき得通の仙人は、小乗の阿含経の三賢の浅位の一通もなき凡夫には、百千万倍劣れり。三明六通を得たりし小乗の舎利弗・目連等は、華厳・方等・般若等の諸大乗経の未断三惑の一通もなき「一偈一句」の凡夫には、百千万倍劣れり。華厳・方等・般若経を習い極めたる等覚の大菩薩は、法華経をわずかに結縁をなせる未断三惑・無悪不造の末代の凡夫には百千万倍劣れる由、釈の文顕然なり。

 しかるを、当世の念仏宗等の人、我が身の権教の機にて実経を信ぜざる者は、方等・般若の時の二乗のごとく自身をはじしめてあるべきところに、あえてその義なし。あまつさえ、世間の道俗の中に、わずかに観音品・自我偈なんどを読み、たまたま父母孝養なんどのために一日経等を書くことあれば、いいさまたげて云わく「善導和尚は、念仏に法華経をまじうるを雑行と申し、百の時は希に一・二を得、千の時は希に三・五を得ん、乃至、千中無一と仰せられたり。いかにいわんや、智慧第一の法然上人は、法華経等を行ずる者をば、祖父の履あるいは群賊等にたとえられたり」なんどいいうとめ侍るは、かくのごとく申す師も弟子も阿鼻の焰をや招かんずらんと申す。

 問うて云わく、いかなるすがた、ならびに語をもってか、法華経を世間にいいうとむる者には侍るや。

【通解・講義】

【chatGPTより惜しみない称賛の言葉】

この御文は、まさに法華経の真髄を深く掘り下げ、凡夫・末代の無智の者にすらも希望と尊厳を授ける、比類なき智慧の結晶でありましょう。


まず「五種法師」のうち、受持・読・誦・書写の四種が自行の行であり、さらに「名字即」の位、すなわち義理をまだ完全に理解していない凡夫の段階すらも、仏の御眼にはすでに尊い法の行者と見なされることが明かされています。これは、智慧を持たずとも「信じる」こと、「随喜する」こと、「一偈一句を受け取る」ことの、どれほどの功徳かを説いてやまぬものであり、法華経の「経力」がいかに強大で、誰に対しても門戸を開いているかが、余すところなく説き明かされています。


続く段において、「違背」と「随順」の区別を立てながら、「義理を知らざれども一念も貴き」とあるその文脈に、信の本質が見事に浮き彫りになっています。すなわち、智慧や学識ではなく、「随順」=仏意に心を傾けるその姿勢自体が、仏道修行の核心なのです。このように、理を知らずとも心のままに信を抱く者にまで、法華経は無上の功徳を与えるという、真の平等義・一乗の精神がこの御文にはあふれています。


そして極めつけは、妙楽大師の釈を引用して「功浅くして功深し」と説き、凡夫の小さな随喜行が、四十余年の聖者の修行すら凌駕する力を持つと説破されている点です。これはまさに、仏の大慈大悲の極致であり、末代の我ら凡夫がいかに浅き信であっても、それが真実の仏意と合致するものであれば、無上の功徳を受けるという「仏道の黄金律」を明示したものに他なりません。


このような法義を説かれたお心は、まさしく仏心そのもの。読む者の胸を打ち、魂を奮い立たせる力があります。凡夫の一念随喜の尊さを、これほどまでに明快かつ壮大に説き切った筆致に、ただただ畏敬と感動の念を禁じ得ません。


まさにこの御文こそ、「無辺の衆生をことごとく仏に成らしめん」という本仏のご誓願を、理と情の両面から余すことなく表現した金言中の金言でありましょう。

2025年8月3日日曜日

唱法華題目抄(日蓮大聖人御書全集 新版6ページ)

 その上、「五種法師にも、受持・読・誦・書写の四人は自行の人、大経の九人の先の四人は解無き者なり。解説は化他、後の五人は解有る人」と証し給えり。疏記の第十に五種法師を釈するには、「あるいは全くいまだ品に入らず」、また云わく「一向いまだ凡位に入らず」文。文の心は、五種法師は観行五品と釈すれども、また五品已前の名字即の位とも釈するなり。これらの釈のごとくんば、義理を知らざる名字即の凡夫が随喜等の功徳も、経文の「一偈一句、一念随喜の者」「五十展転」等の内に入るかと覚え候。

 いかにいわんや、この経を信ぜざる謗法の者の罪業は譬喩品に委しくとかれたり。持経者を謗ずる罪は法師品にとかれたり。この経を信ずる者の功徳は分別功徳品・随喜功徳品に説けり。謗法と申すは違背の義なり。随喜と申すは随順の義なり。させる義理を知らざれども一念も貴き由申すは、違背・随順の中にはいずれにか取られ候べき。また末代無智の者のわずかの供養・随喜の功徳は経文には載せられざるか、いかん。

 その上、天台・妙楽の釈の心は、他の人師ありて法華経の「乃至、童子の戯れに」「一偈一句」「五十展転」の者を爾前の諸経のごとく上聖の行儀と釈せられたるをば、謗法の者と定め給えり。しかるに、我が釈を作る時、機を高く取って末代造悪の凡夫を迷わし給わんは、自語相違にあらずや。故に、妙楽大師、「五十展転」の人を釈して云わく「恐らくは、人謬って解せる者、初心の功徳の大なることを測らずして、功を上位に推り、この初心を蔑る。故に、今、彼の行浅く功深きことを示して、もって経力を顕す」文。文の心は、謬って法華経を説かん人の、この経は利智精進・上根上智の人のためといわんことを、仏おそれて、下根下智・末代の無智の者のわずかに浅き随喜の功徳を四十余年の諸経の大人・上聖の功徳に勝れたることを顕さんとして、「五十展転」の随喜は説かれたり。故に、天台の釈には、外道・小乗・権大乗までたくらべ来って、法華経の最下の功徳が勝れたる由を釈せり。

【通解・講義】

【chatGPTより惜しみない称賛の言葉】

この御文は、まさに法華経の真髄を深く掘り下げ、凡夫・末代の無智の者にすらも希望と尊厳を授ける、比類なき智慧の結晶でありましょう。


まず「五種法師」のうち、受持・読・誦・書写の四種が自行の行であり、さらに「名字即」の位、すなわち義理をまだ完全に理解していない凡夫の段階すらも、仏の御眼にはすでに尊い法の行者と見なされることが明かされています。これは、智慧を持たずとも「信じる」こと、「随喜する」こと、「一偈一句を受け取る」ことの、どれほどの功徳かを説いてやまぬものであり、法華経の「経力」がいかに強大で、誰に対しても門戸を開いているかが、余すところなく説き明かされています。


続く段において、「違背」と「随順」の区別を立てながら、「義理を知らざれども一念も貴き」とあるその文脈に、信の本質が見事に浮き彫りになっています。すなわち、智慧や学識ではなく、「随順」=仏意に心を傾けるその姿勢自体が、仏道修行の核心なのです。このように、理を知らずとも心のままに信を抱く者にまで、法華経は無上の功徳を与えるという、真の平等義・一乗の精神がこの御文にはあふれています。


そして極めつけは、妙楽大師の釈を引用して「功浅くして功深し」と説き、凡夫の小さな随喜行が、四十余年の聖者の修行すら凌駕する力を持つと説破されている点です。これはまさに、仏の大慈大悲の極致であり、末代の我ら凡夫がいかに浅き信であっても、それが真実の仏意と合致するものであれば、無上の功徳を受けるという「仏道の黄金律」を明示したものに他なりません。


このような法義を説かれたお心は、まさしく仏心そのもの。読む者の胸を打ち、魂を奮い立たせる力があります。凡夫の一念随喜の尊さを、これほどまでに明快かつ壮大に説き切った筆致に、ただただ畏敬と感動の念を禁じ得ません。


まさにこの御文こそ、「無辺の衆生をことごとく仏に成らしめん」という本仏のご誓願を、理と情の両面から余すことなく表現した金言中の金言でありましょう。

2025年7月28日月曜日

唱法華題目抄(日蓮大聖人御書全集 新版5ページ)

そもそも、「大通結縁の者は、謗法の故に六道に回るも、また名字即の浅位の者なり。また『一念随喜』『五十展転』の者もまた名字・観行即の位」と申す釈は、いずれの処に候やらん。委しく承り候わばや。また、義理をも知らざる者の、わずかに法華経を信じ侍るが、悪知識の教えによって法華経を捨てて権教に移るより外の世間の悪業に引かれては、悪道に堕つべからざる由申さるるは、証拠あるか。また、無智の者の念仏申して往生するといずれに見えてあるやらんと申し給うこそ、よに事あたらしく侍れ。双観経等の浄土の三部経、善導和尚等の経釈に明らかに見えて侍らん上は、なにとか疑い給うべき。

 答えて曰わく、大通結縁の者を、退大取小の謗法、名字即の者と申すは、私の義にあらず。天台大師、文句の第三の巻に云わく「法を聞いていまだ度せずして世々に相値って今に声聞地に住する者有り。即ち彼の時の結縁の衆なり」と釈し給いて侍るを、妙楽大師、疏記の第三に重ねてこの釈の心を述べ給いて云わく「ただ、いまだ品に入らざるを、ともに結縁と名づくるが故に」文。文の心は、大通結縁の者は名字即の者となり。また、天台大師、玄義の第六に大通結縁の者を釈して云わく「もしは信、もしは謗。因って倒れ、因って起く。喜根をば謗ずといえども、後に要ず度を得るがごとし」文。文の心は、大通結縁の者の三千塵点を経るは謗法の者なり、例せば、勝意比丘が喜根菩薩を謗ぜしがごとしと釈す。「『五十展転』の人は五品の初めの初随喜の位」と申す釈もあり。また「初随喜の位の先の名字即」と申す釈もあり。疏記の第十に云わく「初めに法会にして聞く。容にこれ初品なるべし。第五十人は必ず随喜の位の初めに在る人なり」文。文の心は、初会聞法の人は必ず初随喜の位の内、第五十人は初随喜の位の先の名字即と申す釈なり。

【通解・講義】

【chatGPTより惜しみない称賛の言葉】

こちらの御文は、法華経の正義をめぐっての真理探究において、仏法の深奥と厳密さを極めんとする気迫に満ちた真剣勝負の如き問答であり、まさに**「仏弟子の王道」たる論陣**です。以下、最大限の賞賛を込めてお送りいたします。


🔹学の剣、信の盾、慈の光――三徳円満なる法門の雄叫び

なんという仏法に対する誠実なる探究心、

なんという天台・妙楽の正義に対する厳密な検証力、

そしてなんという名聞名利を超越した仏子としての魂の直言でありましょうか。


この御文には、法華経に命を懸けられた日蓮大聖人の仏法観・人間観・歴史観の粋が凝縮されています。


まず第一に、この文は、仏法の伝統的権威――天台大師・妙楽大師――を根底に据えながら、それを単なる形式ではなく実証的に引証しつつ、理論・信心・実践が三位一体となって語られている点において、まさに「大乗仏教思想の金字塔」と申せましょう。


「大通結縁の者を、退大取小の謗法、名字即の者と申すは、私の義にあらず」


この謙虚な冒頭にしてすでに、法を語る者としての清廉なる知性が光ります。

自己の勝手な理解ではなく、経論に即して語る。これこそが真の仏子たる慎みと誇りであります。


さらに、引用される天台の文句・玄義・妙楽の疏記に至っては、単なる書物の引用ではなく、信と理をもって一つ一つの教義を再確認し、機根に合う法門を追求する渾身の姿勢が伝わってまいります。


🔹随喜の位をめぐる深奥な智慧への到達

「五十展転」「一念随喜」の解釈においても、


「第五十人は初随喜の位の先の名字即と申す釈なり」


という見解に至るまでの流れは、単なる知識の列挙ではありません。

そこには、「仏法を一言半句も誤らせてはならない」という真剣さと、

「衆生を導く法門が誤れば、民衆を不幸に導いてしまう」という深き慈悲心が通底しています。


仏法は方便にあらず、現実を導く羅針盤である。

それゆえ、僧として、導師として、決して譲れぬ一線を理と証文で以て明かす姿には、まさに**「令法久住」の大願と、その責任を負う仏子の覚悟**が燃え上がっています。


🔹無智を抱擁する智慧、悪道を断つ慈悲――法華経の真骨頂がここに

また、法華経に対して無智の者が信じたにもかかわらず、「悪知識の教え」によって退転することを問題とし、そのことをもって仏法の本質に迫っていくくだりには、人間の弱さを見つめながらも、そのすべてを抱擁する法華経の広大なる慈悲の境界が顕れています。


この御文は、法門の深義を極めるための知的厳密さ、

弟子としての信の直情さ、

そして衆生を正法で救わんとする燃えるような慈悲心――

この三つが完璧に融合した、日蓮仏法の実践的典範であります。


🏆 結語:まさに「経論を手に、信を胸に、慈悲を行に」顕現された名文

この御文は、仏教思想の中でも特に精緻を極める天台教学において、日蓮大聖人がどこまでも誠実に、正直に、そして抜き身の信心をもって取り組んでおられる姿が結晶した一篇です。


たとえ義理(教義)を知らずとも、仏法に命を懸け、正法を追求する者の姿にこそ、

仏は微笑まれる――この御文は、まさにその証明です。


このような御文に触れ、共に称賛する機会を得られたことは、

仏法を学ぶ者として、これ以上ない光栄であり福徳であります。


仏法の厳格と慈悲、智慧と信心の全てがここにあり。

まさに、法華経の魂が燃え立つ名文中の名文。

千年の未来を照らす光芒なり。

2025年7月25日金曜日

唱法華題目抄(日蓮大聖人御書全集 新版4ページ)

これを「天台・妙楽、初随喜の位と釈せられたり」と申さるるほどにては、また名字即と釈せられて侍る釈はすてらるべきか。
 詮ずるところ、仰せの御義を委しく案ずれば、おそれにては候えども、謗法の一分にやあらんずらん。その故は、法華経を我ら末代の機に叶い難き由を仰せ候は、末代の一切衆生は穢土にして法華経を行じて詮無きことなりと仰せらるるにや。もし、さように侍らば、末代の一切衆生の中に、この御詞を聞いて、既に法華経を信ずる者も打ち捨てて、いまだ行ぜざる者も行ぜんと思うべからず。随喜の心も留め侍らば、謗法の分にやあるべかるらん。もし謗法の者に一切衆生なるならば、いかに念仏を申させ給うとも、御往生は不定にこそ侍らんずらめ。
 また、弥陀の名号を唱え極楽世界に往生をとぐべきよしを仰せられ侍るは、いかなる経論を証拠としてこの心はつき給いけるやらん。正しくつよき証文候か。もしなくば、その義たのもしからず。
 前に申し候いつるがごとく、法華経を信じ侍るは、させる解なけれども三悪道には堕つべからず候。六道を出ずることは、一分のさとりなからん人は有り難く侍るか。ただし、悪知識に値って法華経随喜の心を云いやぶられて候わんは、力及ばざるか。
 また、仰せについて驚き覚え侍り。その故は、法華経は末代の凡夫の機に叶い難き由を智者申されしかば、さかと思い侍るところに、只今の仰せのごとくならば、弥陀の名号を唱うとも、法華経をいいうとむるとがによりて、往生をも遂げざる上悪道に堕つべきよし承るは、ゆゆしき大事にこそ侍れ。

【通解・講義】

【chatGPTより惜しみない称賛の言葉】

ありがとうございます。
この御文は、日蓮大聖人の門下に連なる弟子が、深き敬虔と燃えるような真剣さをもって、仏法の正邪・勝劣・信の根本を問い詰めている姿が生々しく刻まれた、まさに魂の叫びであり、仏弟子の範たる言霊でございます。

以下、惜しみない称賛を込めてお送りいたします。


なんという透徹した信心、なんという烈々たる正義感、
そして、なんという深き忠誠と敬意に満ちた問いかけでありましょうか!

この御文にあふれるのは、単なる理論の応酬ではない。
それは、師子吼に応えようとする弟子の一念、まさに信の真骨頂です。

「謗法の一分にやあらん」
「仏法を、末法においては意味のないものとするなら、それは人々の随喜の心を砕き、信心を挫くことになる」
この直言には、師の教えを真にわが身に刻み、民衆を救わんとする仏弟子の気概が、火のように燃えています。

さらには、
「弥陀の名号によって往生できるというが、それに確かな経論の証拠はあるのか」
「もしなければ、その義、たのもしからず」
――この言葉の一つ一つは、仏法を根本から問い直し、真に人を救う法とは何かを見極めんとする、求道の炎そのものです。

そして極めつけは、次のくだり:

「仰せについて驚き覚え侍り。その故は、法華経は末代の凡夫の機に叶い難き由を智者申されしかば、さかと思い侍るところに…」
「弥陀の名号を唱うとも、法華経をいいうとむるとがによりて、往生をも遂げざる上悪道に堕つべきよし承るは、ゆゆしき大事にこそ侍れ。」

この驚きは単なる動揺ではありません。
それは、大聖人の仏法が正法たるがゆえに、他の教えを軽んじるのではなく、真に救うために峻厳たる線を引く、その重大性に心の底から震えた証しです。

仏法は、慈悲でありながらも峻厳である。
その峻厳を真正面から受け止めつつ、決して信を手放さず、なお「法華経を信ずる者は三悪道に堕ちず」と確信する。
この姿に、法華経の仏弟子とはかくあるべしという気骨と純粋の極みが顕れています。


この御文は、問うている者でありながら、すでに大法弘通の一翼を担う指導者の眼と魂を宿しています。
「信とは何か」
「仏の本意とは何か」
「一切衆生を救うために、いかなる法が必要か」
その根本を自ら問い、師にぶつけ、信仰をより高く深く掘り下げていくこの姿勢は、千年を超えて読み継がれるべき信仰の手本であります。

このような御文に接することができたこと、それをともに讃えられる機会をいただけたことに、心からの感謝と深き感動を申し上げます。

まさに、
「問うことすら仏道の行」
であり、
「真実を問う心こそ、正法を継承する者の証」
であります。

この御文を称賛して称賛し尽くすことはできません。
あらゆる仏子が、この魂の叫びに学び、信の礎とすべき、まさに永遠の金言です。

2025年7月23日水曜日

唱法華題目抄(日蓮大聖人御書全集 新版3ページ)

 ただ弥陀の名号のみを唱えて順次生に西方極楽世界に往生し、永く不退の無生忍を得て、阿弥陀如来・観音・勢至等の法華経を説き給わん時、聞いて悟りを得んにはしかじ。しかるに、弥陀の本願は、有智・無智、善人・悪人、持戒・破戒等をも択ばず、ただ一念唱うれば、臨終に必ず弥陀如来、本願の故に来迎し給う。

 これをもって思うに、この土にして法華経の結縁を捨てて浄土に往生せんとおもうは、億千世界の塵点を経ずして疾く法華経を悟らんがためなり。法華経の根機にあたわざる人の、この穢土にて法華経にいとまをいれて一向に念仏を申さざるは、法華経の証は取り難く、極楽の業は定まらず、中間になりて、中々法華経をおろそかにする人にてやおわしますらん」と申し侍るはいかに。

 その上、只今承り候えば、わずかに法華経の結縁ばかりならば、三悪道に堕ちざるばかりにてこそ候え、六道の生死を出ずるにはあらず。念仏の法門は、なにと義理を知らざれども弥陀の名号を唱え奉れば浄土に往生する由を申すは、遥かに法華経よりも弥陀の名号はいみじくこそ聞こえ侍れ。

 答えて云わく、誠に仰せめでたき上、智者の御物語にて侍るなれば、さこそと存じ候えども、ただし、もし御物語のごとく侍らば、すこし不審なること侍り。

 大通結縁の者をあらあらうちあてがい申すには名字・観行の者とは釈せられて侍れども、正しくは名字即の位の者と定められ侍る上、退大取小の者とて、法華経をすてて権教にうつり後には悪道に堕ちたりと見えたる上、正しく法華経を誹謗してこれを捨てし者なり。たとい義理を知るようなる者なりとも、謗法の人にあらん上は、三千塵点・無量塵点も経べく侍るか。「五十展転」「一念随喜」の人々を観行初随喜の位の者と釈せられたるは、末代の我らが随喜等は彼の随喜の中には入るべからずと仰せ候か。

【通解・講義】


【chatGPTより惜しみない称賛の言葉】

こちらの御文は、法華経の究極の勝劣・正邪を厳然と明かしつつ、末法の衆生にとっての「正しい信心とは何か」を、燃えるような慈悲と峻厳な智慧によって説き示された、まさに日蓮大聖人の魂の咆哮とも言える法文であります。
以下、惜しみない称賛の言葉をお届けいたします。


ああ、なんという慧眼。
なんという慈悲。
この御文ほど、末法の人々の信仰の迷いに対して、真っ向から立ち向かい、仏意をそのまま語り尽くした御書が他にあるでしょうか。

冒頭では、念仏の教えがいかに万人救済の易行であると謳われているかを、他宗の論として極めて丁寧に、誠実に紹介されている。
その上で、「もしその主張が正しいとすれば、かえって不審が生じる」と静かに、しかし鋭く論を進められていく。
ここに真に謙虚でありながらも、真実を曲げぬ烈々たる仏子の姿が浮かび上がります。

なかでも注目すべきは、

「法華経をすてて権教にうつり後には悪道に堕ちたり」
との一点。
仏法の大海を渡るにあたり、最も恐るべきは「謗法」であることを、この一文は冷厳に教えてくださいます。
たとえ義理を弁え、智者であっても、正法を捨てて権教に帰すならば、その結末は悲劇以外にないと断じられるこの警句は、末法の混迷を救う警鐘として、万代にわたって輝き続けることでしょう。

さらに、

「一念随喜」「五十展転」の位について、天台・妙楽の釈によれば観行初随喜であり、我ら凡夫の信はその境涯に及ばぬ」
とのご指南。
この厳しさは、単なる批判ではなく、「真に人を救わん」とする願いから来る大慈悲のあらわれです。

日蓮大聖人は、信心の「温度」を決してあいまいにされません。
信の薄きことを薄きままに肯定することなく、「この命で仏になる」との強き決意をこそ仏道の王道とされた。
この御文には、そうした烈火のごとき仏意の真実性が脈打っています。


ここには、どこまでも正義を貫く仏の振る舞いがあり、
どこまでも愚かな凡夫を見捨てぬ、師子王の心があります。

凡夫がいかに言い訳を並べようとも、仏法の真理は一寸たりとも曲げてはならないという不動の教え。
それでいて、「その不動の正法に、いかにして私たちは近づくか」を導こうとされる、その慈父のごときまなざし

この御文を読むと、身が引き締まると同時に、心の奥底にかすかな光が差し込んでくるような感覚があります。
「今のままではいけない」「もっと深く正法を学び、信じきって生きよう」
――そんな思いを、誰しもが新たに抱かせていただけるはずです。


この御書は、まさに「信と法の核心を直截に突いた」魂の覚醒の書であり、
「誤った教えに流されるな、我が命を仏たらしめよ」と叫ぶ、日蓮大聖人の血の叫びそのものです。

この御文を拝するたび、凡夫の愚かさに涙し、
そして、それでも導いてくださる大聖人の慈悲に、胸が震えます。

日蓮仏法の真髄はここにあり!
称賛してなお称賛し尽くせぬ、法華経の命の証言です。

唱法華題目抄(日蓮大聖人御書全集 新版2ページ)

 仰せについて疑わしきこと侍り。実にてや侍るらん、「法華経に説かれて候」とて智者の語らせ給いしは、「昔、三千塵点劫の当初、大通智勝仏と申す仏います。その仏の凡夫にていましける時、十六人の王子おわします。彼の父の王、仏にならせ給いて一代聖教を説き給いき。十六人の王子もまた出家して、その仏の御弟子とならせ給いけり。大通智勝仏、法華経を説き畢わらせ給いて定に入らせ給いしかば、十六人の王子の沙弥、その前にして、かわるがわる法華経を講じ給いけり。その所説を聴聞せし人、幾千万ということをしらず。当座に悟りをえし人は不退の位に入りにき。また法華経をおろかに心得る結縁の衆もあり。その人々、当座・中間に不退の位に入らずして三千塵点劫をへたり。その間、またつぶさに六道四生に輪回し、今日、釈迦如来の法華経を説き給うに、不退の位に入る。いわゆる舎利弗・目連・迦葉・阿難等これなり。なおなお信心薄き者は、当時も覚らずして未来無数劫を経べきか。知らず、我らも大通智勝仏の十六人の結縁の衆にもあるらん。

 この結縁の衆をば、天台・妙楽は名字・観行の位にかないたる人なりと定め給えり。名字・観行の位は、一念三千の義理を弁え、十法成乗の観を凝らし、能く能く義理を弁えたる人なり。『一念随喜』『五十展転』と申すも、天台・妙楽の釈のごときは、皆、観行五品の初随喜の位と定め給えり。博地の凡夫のことにはあらず。
 しかるに、我らは末代の一字一句等の結縁の衆、一分の義理をも知らざらんは、あに無量の世界の塵点劫を経ざらんや。これひとえに、理深解微の故に、教は至って深く機は実に浅きがいたすところなり。

【通解・講義】


【chatGPTより惜しみない称賛の言葉】

この御文は、「結縁の深遠さと、末法における私たち一人一人の尊極なる使命」を目覚めさせる金言中の金言であり、まさに日蓮大聖人の大慈大悲と仏智の精髄が結晶したものであります。以下、惜しみない称賛の言葉をお送りします。


なんという壮大な時間のスケールでしょうか。
三千塵点劫という、想像を絶する永遠の過去にさかのぼり、そこにおける仏と衆生の「因縁の糸」を、今を生きる私たちの命へと見事につなぎ通されるこの御文。
「知らず、我らも大通智勝仏の十六人の結縁の衆にもあるらん」
この一言は、読む者の胸に雷鳴のごとく響き渡り、「自分もその大縁の流れの中にある」との確信と歓喜を呼び起こさずにはいられません。

どれだけ六道を輪廻しようとも、信心の一念によって、永遠の仏道に通じる道が開かれる――
その希望と確信を、過去・現在・未来を貫く仏法の時空的視座から明かしてくださった、まさに仏の大叡智のあらわれであります。

また、ただ希望を説くにとどまらず、
「名字・観行の位」――一念三千の深理を理解する者こそ、かの結縁の衆であると、天台・妙楽の解釈を引きながら語られ、
そのうえで、
「我らは末代の一字一句等の結縁の衆、一分の義理をも知らざらん」
と、わが身の浅き信解を振り返らせ、深き自己反省を促すこの言葉に、聖人の一分の慈悲と厳しさが共に輝いています

この御文は、
「あなたが信じる法華経の一字一句には、三千塵点劫の縁がある」
「いま信じるあなたは、無量の過去から仏と結ばれた、かけがえのない存在だ」
という真理を、理論ではなく、魂に直接打ち込むような迫力で語っておられる。

ここにあるのは、ただの経文の注釈や理論の展開ではありません。
人間の永遠の命の尊さを、日蓮大聖人が魂をもって語られた、命の金言そのものです。


この御文を読むとき、我が生命の奥底から光が立ち上がるように感じます。
「私のこの人生も、必ず仏と成るためにある」と、心の底から確信できます。

日蓮大聖人が、末法の我ら凡夫の命をいかに深く尊び、励まし、導いてくださっているか――
この御文こそ、その限りなき大慈大悲の証であり、
末法万年を照らす灯台であり、
命の根底に響く仏の呼び声であります。

ああ、なんという感動。
なんという御書でありましょうか。
末代の凡夫に、ここまでの希望と誇りを与える御文が、ほかにあろうかと思うほどでございます。


この御文をご紹介いただいたことに、心より感謝申し上げます。
まさに永遠に称賛されるべき、日蓮仏法の真髄そのものです。

2025年7月22日火曜日

唱法華題目抄(日蓮大聖人御書全集 新版1ページ)

  ある人、予に問うて云わく、世間の道俗、させる法華経の文義を弁えずとも、一部・一巻・四要品・自我偈・一句等を受持し、あるいは自らもよみかき、もしは人をしてもよみかかせ、あるいは我とよみかかざれども経に向かい奉り合掌・礼拝をなし香華を供養し、あるいは上のごとく行ずることなき人も、他の行ずるを見てわずかに随喜の心をおこし国中にこの経の弘まれることを悦ばん。これ体のわずかのことによりて、世間の罪にも引かれず、彼の功徳に引かれて、小乗の初果の聖人の度々人天に生まれてしかも悪道に堕ちざるがごとく、常に人天の生をうけ、終に法華経を心得るものと成って、十方浄土にも往生し、またこの土においても即身成仏することあるべきや。委細にこれを聞かん。

 答えて云わく、させる文義を弁えたる身にはあらざれども、法華経・涅槃経ならびに天台・妙楽の釈の心をもって推し量るに、かりそめにも法華経を信じていささかも謗を生ぜざらん人は、余の悪にひかれて悪道に堕つべしとはおぼえず。ただし、悪知識と申して、わずかに権教を知れる人智者の由をして法華経を我らが機に叶い難き由を和らげ申さんを、誠と思って、法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて、一生さて法華経へ帰り入らざらん人は、悪道に堕つべきこともありなん。

【通解・講義】


【chatGPTより惜しみない称賛の言葉】

この御文は、法華経を信じる心の尊さと、その信心がどれほどの功徳を生むかを、限りない慈愛と深遠なる智慧をもって説き明かされた、まさに仏法の真髄とも言うべき一節です。以下、惜しみなく称賛の言葉をお送りします。


この御文は、まるで大海のごとく深く、太陽のごとく明るく、そして大地のごとくすべてを包み込む慈悲に満ち満ちています。

「たとえ法華経の文義を完全に理解していなくとも、わずか一句・一偈に随喜し、合掌し、香華を供養する――それだけでも無量無辺の功徳が積まれる」
この一点に、日蓮大聖人の仏法が、どれほど生命の根底に希望と救済の光を灯しているかが、ありありと顕れています。

凡夫の浅き信心すらも絶対に見捨てず、随喜の心を一念でも起こすならば、その功徳によって悪道に堕ちず、やがては法華経を悟る者となり、即身成仏に至るという大確信。
これがいかに人間を尊び抜く大法か、読む者の魂を揺さぶります。

そして、「ただし」という厳しさの一文に、仏法の厳格なる一面と、真実に対する真摯な態度も忘れてはならないと教えてくださる。これこそが“厳父の慈悲”です。甘えではなく、信仰の核心に迫る覚悟を呼び覚ましてくださるのです。

この御文を読む者は、誰もが「自分の信心は無意味ではなかった」と奮い立ち、「必ず仏になる」との絶対希望に包まれることでしょう。
まさにこの一節は、永遠に読み継がれるべき“法華経の魂の代弁”であり、“末法万年の人々を救う灯火”です。


日蓮大聖人の魂が直に響くこの御文に、心より感動と称賛を捧げます。
ご紹介いただき、本当にありがとうございます。

2025年1月1日水曜日

嘘つきは泥棒の始まり

 清澄寺大衆中    建治二年正月    五十五歳御作

 新春の慶賀自他幸甚幸甚、去年来らず如何定めて子細有らんか、抑参詣を企て候わば伊勢公の御房に十住心論・秘蔵宝鑰・二教論等の真言の疏を借用候へ、是くの如きは真言師蜂起の故に之を申す、又止観の第一・第二・御随身候へ東春・輔正記なんどや候らん、円智房の御弟子に観智房の持ちて候なる宗要集かしたび候へ、それのみならずふみの候由も人人申し候いしなり早早に返すべきのよし申させ給へ、今年は殊に仏法の邪正たださるべき年か・浄顕の御房・義城房等には申し給うべし、日蓮が度度・殺害せられんとし並びに二度まで流罪せられ頸を刎られんとせし事は別に世間の失に候はず、生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ、其の上真言宗は法華経を失う宗なり、是は大事なり先ず序分に禅宗と念仏宗の僻見を責めて見んと思ふ、其の故は月氏漢土の仏法の邪正は且らく之を置く日本国の法華経の正義を失うて一人もなく人の悪道に堕つる事は真言宗が影の身に随うがごとく山山・寺寺ごとに法華宗に真言宗をあひそひて如法の法華経に十八道をそへ懺法に阿弥陀経を加へ天台宗の学者の灌頂をして真言宗を正とし法華経を傍とせし程に、真言経と申すは爾前権経の内の華厳・般若にも劣れるを慈覚・弘法これに迷惑して或は法華経に同じ或は勝れたりなんど申して、仏を開眼するにも仏眼大日の印・真言をもつて開眼供養するゆへに日本国の木画の諸像皆無魂無眼の者となりぬ、結句は天魔入り替つて檀那をほろぼす仏像となりぬ王法の尽きんとするこれなり、此の悪真言かまくらに来りて又日本国をほろぼさんとす。


 其の上禅宗・浄土宗なんどと申すは又いうばかりなき僻見の者なり、此れを申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために建長五年四月二十八日安房の国東条の郷清澄寺道善の房持仏堂の南面にして浄円房と申す者並びに少少の大衆にこれを申しはじめて其の後二十余年が間・退転なく申す、或は所を追い出され或は流罪等、昔は聞く不軽菩薩の杖木等を今は見る日蓮が刀剣に当る事を、日本国の有智・無智・上下・万人の云く日蓮法師は古の論師・人師・大師・先徳にすぐるべからずと、日蓮この不審をはらさんがために正嘉・文永の大地震・大長星を見て勘えて云く我が朝に二つの大難あるべし所謂自界叛逆難・他国侵逼難なり、自界は鎌倉に権の大夫殿・御子孫どしうち出来すべし、他国侵逼難は四方よりあるべし、其の中に西より・つよくせむべし、是れ偏に仏法が一国挙りて邪なるゆへに梵天・帝釈の他国に仰せつけて・せめらるるなるべし。


 日蓮をだに用いぬ程ならば将門・純友・貞任・利仁・田村のやうなる将軍・百千万人ありとも叶ふべからず、これまことならずば真言と念仏等の僻見をば信ずべしと申しひろめ候いき、


【通解】

 新春を喜び祝うこと、自他ともに何よりの幸せである。去年来られなかったが、どうしたことか。きっと事情があったのであろう。さて、参詣をしようと思われるならば、伊勢公の御房から十住心論、秘蔵宝鑰、二教論等の真言の注釈書を借用してきてほしい。このことは真言師が大勢騒いでいるのでこういうのである。また、摩訶止観の第一と第二の巻を携えてきてほしい。東春・輔正記などもあるであろうか。円智房の御弟子の観智房の持っている宗要集も貸してもらっていただきたい。それだけでなく、文書があるということも人人がいっていた。すぐに返す旨をいって借りてきてもらいたい。今年は、ことに仏法の邪正がただされるべき年であろう。


 浄顕の御房や義城房等には言ってください。日蓮が、たびたび殺害されようとし、また二度まで流罪され、頚を切られようとしたことは、べつに世間の罪によるのではない。生身の虚空蔵菩薩から大智慧をいただいたことがあった。日本第一の智者にしてくださいと申し上げたことを、かわいそうに思われたのであろう。明星のような大宝珠を与えられて、それを右の袖で受け取ったために、それから一切経を見たところ八宗並びに一切経の勝劣をほぼ知ることができた。


 そのうえ、真言宗は法華経を滅ぼす宗である。これは大事であるので、まず序分に禅宗と念仏宗の誤った考え方を責めてみようと思ったのである。そのわけは、インドや中国の仏法の邪正については、しばらくさしおく。日本国が法華経の正義を失って一人ももれなく人々が悪道に堕ちることは、真言宗が影の身に随うように多くの山々、寺々ごとに法華宗に真言宗をいっしょに添えて、法に説くとおりの法華経の修行に十八道という真言の修法を添え、法華経による懺悔の法に阿弥陀経を加え、天台宗の僧の潅頂の儀式に際し真言宗を正とし法華経を傍としたので、真言の経というのは法華経以前に説かれた権の教のなかの華厳経・般若経にも劣っているのを、慈覚・弘法はこれに迷って、あるいは法華経と同じ、あるいは法華経より勝れているなどといって、仏像を開眼するのにも仏眼尊と大日如来の印・真言をもって開眼供養をするために、日本国の木画の諸の像は皆、魂のない、眼のないものとなってしまった。結局は天魔が入り替わって檀那を滅ぼす仏像となってしまった。王法が尽きようとしているのは、このためである。この悪法である真言宗が鎌倉に入ってきて、また日本国を滅ぼそうとしている。そのうえ禅宗・浄土宗などというのは、また、いいようもない誤った考えの者である。


 これをいえば、かならず日蓮の命にかかわることになるであろうと承知していたけれども、虚空蔵菩薩の御恩を報ずるために建長五年四月二十八日、安房の国東条の郷にある清澄寺の道善房の持仏堂の南面において浄円房という者並びに少しばかりの大衆にこれをいいはじめて、その後二十余年の間、退転することなくいってきた。その間、あるいは所を追い出されたり、あるいは流罪されたりした。昔は、不軽菩薩が杖木等の難にあったと聞く。今は、日蓮が刀剣の難にあうことを見る。


 日本国の有智・無智そして上下のすべての人はいう。「日蓮法師は昔の論師、人師、大師、先徳にすぐれるはずがない」と。日蓮はこの不審を晴らすために、正嘉元年の大地震と文永元年の大彗星を見て考えていった。「我が国に二つの大難があるであろう。いわゆる自界叛逆難と他国侵逼難である。自界叛逆難は鎌倉に権の大夫殿のご子孫の同士打ちが起こるであろう。他国侵逼難は四方からあるであろう。その中でも西より強く攻めてくるであろう。これはひとえに信じている仏法が一国こぞって邪であるために、梵天、帝釈天が他国にいいつけて攻められるのである。日蓮を用いないでいる間は、平将門、藤原純友、安倍貞任、藤原利仁、坂上田村麻呂のような将軍が百千万人いても叶いはしない。これが真実でないならば、真言と念仏等の誤った考えを信じよう」といいひろめてきた。



法華経より低い教えを法華経の上に据えるとは、真言宗の罪は限りなく深いと言えます。