その上、「五種法師にも、受持・読・誦・書写の四人は自行の人、大経の九人の先の四人は解無き者なり。解説は化他、後の五人は解有る人」と証し給えり。疏記の第十に五種法師を釈するには、「あるいは全くいまだ品に入らず」、また云わく「一向いまだ凡位に入らず」文。文の心は、五種法師は観行五品と釈すれども、また五品已前の名字即の位とも釈するなり。これらの釈のごとくんば、義理を知らざる名字即の凡夫が随喜等の功徳も、経文の「一偈一句、一念随喜の者」「五十展転」等の内に入るかと覚え候。
いかにいわんや、この経を信ぜざる謗法の者の罪業は譬喩品に委しくとかれたり。持経者を謗ずる罪は法師品にとかれたり。この経を信ずる者の功徳は分別功徳品・随喜功徳品に説けり。謗法と申すは違背の義なり。随喜と申すは随順の義なり。させる義理を知らざれども一念も貴き由申すは、違背・随順の中にはいずれにか取られ候べき。また末代無智の者のわずかの供養・随喜の功徳は経文には載せられざるか、いかん。
その上、天台・妙楽の釈の心は、他の人師ありて法華経の「乃至、童子の戯れに」「一偈一句」「五十展転」の者を爾前の諸経のごとく上聖の行儀と釈せられたるをば、謗法の者と定め給えり。しかるに、我が釈を作る時、機を高く取って末代造悪の凡夫を迷わし給わんは、自語相違にあらずや。故に、妙楽大師、「五十展転」の人を釈して云わく「恐らくは、人謬って解せる者、初心の功徳の大なることを測らずして、功を上位に推り、この初心を蔑る。故に、今、彼の行浅く功深きことを示して、もって経力を顕す」文。文の心は、謬って法華経を説かん人の、この経は利智精進・上根上智の人のためといわんことを、仏おそれて、下根下智・末代の無智の者のわずかに浅き随喜の功徳を四十余年の諸経の大人・上聖の功徳に勝れたることを顕さんとして、「五十展転」の随喜は説かれたり。故に、天台の釈には、外道・小乗・権大乗までたくらべ来って、法華経の最下の功徳が勝れたる由を釈せり。
この御文は、まさに法華経の真髄を深く掘り下げ、凡夫・末代の無智の者にすらも希望と尊厳を授ける、比類なき智慧の結晶でありましょう。
まず「五種法師」のうち、受持・読・誦・書写の四種が自行の行であり、さらに「名字即」の位、すなわち義理をまだ完全に理解していない凡夫の段階すらも、仏の御眼にはすでに尊い法の行者と見なされることが明かされています。これは、智慧を持たずとも「信じる」こと、「随喜する」こと、「一偈一句を受け取る」ことの、どれほどの功徳かを説いてやまぬものであり、法華経の「経力」がいかに強大で、誰に対しても門戸を開いているかが、余すところなく説き明かされています。
続く段において、「違背」と「随順」の区別を立てながら、「義理を知らざれども一念も貴き」とあるその文脈に、信の本質が見事に浮き彫りになっています。すなわち、智慧や学識ではなく、「随順」=仏意に心を傾けるその姿勢自体が、仏道修行の核心なのです。このように、理を知らずとも心のままに信を抱く者にまで、法華経は無上の功徳を与えるという、真の平等義・一乗の精神がこの御文にはあふれています。
そして極めつけは、妙楽大師の釈を引用して「功浅くして功深し」と説き、凡夫の小さな随喜行が、四十余年の聖者の修行すら凌駕する力を持つと説破されている点です。これはまさに、仏の大慈大悲の極致であり、末代の我ら凡夫がいかに浅き信であっても、それが真実の仏意と合致するものであれば、無上の功徳を受けるという「仏道の黄金律」を明示したものに他なりません。
このような法義を説かれたお心は、まさしく仏心そのもの。読む者の胸を打ち、魂を奮い立たせる力があります。凡夫の一念随喜の尊さを、これほどまでに明快かつ壮大に説き切った筆致に、ただただ畏敬と感動の念を禁じ得ません。
まさにこの御文こそ、「無辺の衆生をことごとく仏に成らしめん」という本仏のご誓願を、理と情の両面から余すことなく表現した金言中の金言でありましょう。
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