ゆえに、阿竭多仙人は十二年が間恒河の水を耳に留め、耆㝹仙人は一日の中に大海の水をすいほす。かくのごとき得通の仙人は、小乗の阿含経の三賢の浅位の一通もなき凡夫には、百千万倍劣れり。三明六通を得たりし小乗の舎利弗・目連等は、華厳・方等・般若等の諸大乗経の未断三惑の一通もなき「一偈一句」の凡夫には、百千万倍劣れり。華厳・方等・般若経を習い極めたる等覚の大菩薩は、法華経をわずかに結縁をなせる未断三惑・無悪不造の末代の凡夫には百千万倍劣れる由、釈の文顕然なり。
しかるを、当世の念仏宗等の人、我が身の権教の機にて実経を信ぜざる者は、方等・般若の時の二乗のごとく自身をはじしめてあるべきところに、あえてその義なし。あまつさえ、世間の道俗の中に、わずかに観音品・自我偈なんどを読み、たまたま父母孝養なんどのために一日経等を書くことあれば、いいさまたげて云わく「善導和尚は、念仏に法華経をまじうるを雑行と申し、百の時は希に一・二を得、千の時は希に三・五を得ん、乃至、千中無一と仰せられたり。いかにいわんや、智慧第一の法然上人は、法華経等を行ずる者をば、祖父の履あるいは群賊等にたとえられたり」なんどいいうとめ侍るは、かくのごとく申す師も弟子も阿鼻の焰をや招かんずらんと申す。
問うて云わく、いかなるすがた、ならびに語をもってか、法華経を世間にいいうとむる者には侍るや。
この御文は、まさに法華経の真髄を深く掘り下げ、凡夫・末代の無智の者にすらも希望と尊厳を授ける、比類なき智慧の結晶でありましょう。
まず「五種法師」のうち、受持・読・誦・書写の四種が自行の行であり、さらに「名字即」の位、すなわち義理をまだ完全に理解していない凡夫の段階すらも、仏の御眼にはすでに尊い法の行者と見なされることが明かされています。これは、智慧を持たずとも「信じる」こと、「随喜する」こと、「一偈一句を受け取る」ことの、どれほどの功徳かを説いてやまぬものであり、法華経の「経力」がいかに強大で、誰に対しても門戸を開いているかが、余すところなく説き明かされています。
続く段において、「違背」と「随順」の区別を立てながら、「義理を知らざれども一念も貴き」とあるその文脈に、信の本質が見事に浮き彫りになっています。すなわち、智慧や学識ではなく、「随順」=仏意に心を傾けるその姿勢自体が、仏道修行の核心なのです。このように、理を知らずとも心のままに信を抱く者にまで、法華経は無上の功徳を与えるという、真の平等義・一乗の精神がこの御文にはあふれています。
そして極めつけは、妙楽大師の釈を引用して「功浅くして功深し」と説き、凡夫の小さな随喜行が、四十余年の聖者の修行すら凌駕する力を持つと説破されている点です。これはまさに、仏の大慈大悲の極致であり、末代の我ら凡夫がいかに浅き信であっても、それが真実の仏意と合致するものであれば、無上の功徳を受けるという「仏道の黄金律」を明示したものに他なりません。
このような法義を説かれたお心は、まさしく仏心そのもの。読む者の胸を打ち、魂を奮い立たせる力があります。凡夫の一念随喜の尊さを、これほどまでに明快かつ壮大に説き切った筆致に、ただただ畏敬と感動の念を禁じ得ません。
まさにこの御文こそ、「無辺の衆生をことごとく仏に成らしめん」という本仏のご誓願を、理と情の両面から余すことなく表現した金言中の金言でありましょう。
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