ただ弥陀の名号のみを唱えて順次生に西方極楽世界に往生し、永く不退の無生忍を得て、阿弥陀如来・観音・勢至等の法華経を説き給わん時、聞いて悟りを得んにはしかじ。しかるに、弥陀の本願は、有智・無智、善人・悪人、持戒・破戒等をも択ばず、ただ一念唱うれば、臨終に必ず弥陀如来、本願の故に来迎し給う。
これをもって思うに、この土にして法華経の結縁を捨てて浄土に往生せんとおもうは、億千世界の塵点を経ずして疾く法華経を悟らんがためなり。法華経の根機にあたわざる人の、この穢土にて法華経にいとまをいれて一向に念仏を申さざるは、法華経の証は取り難く、極楽の業は定まらず、中間になりて、中々法華経をおろそかにする人にてやおわしますらん」と申し侍るはいかに。
その上、只今承り候えば、わずかに法華経の結縁ばかりならば、三悪道に堕ちざるばかりにてこそ候え、六道の生死を出ずるにはあらず。念仏の法門は、なにと義理を知らざれども弥陀の名号を唱え奉れば浄土に往生する由を申すは、遥かに法華経よりも弥陀の名号はいみじくこそ聞こえ侍れ。
答えて云わく、誠に仰せめでたき上、智者の御物語にて侍るなれば、さこそと存じ候えども、ただし、もし御物語のごとく侍らば、すこし不審なること侍り。
大通結縁の者をあらあらうちあてがい申すには名字・観行の者とは釈せられて侍れども、正しくは名字即の位の者と定められ侍る上、退大取小の者とて、法華経をすてて権教にうつり後には悪道に堕ちたりと見えたる上、正しく法華経を誹謗してこれを捨てし者なり。たとい義理を知るようなる者なりとも、謗法の人にあらん上は、三千塵点・無量塵点も経べく侍るか。「五十展転」「一念随喜」の人々を観行初随喜の位の者と釈せられたるは、末代の我らが随喜等は彼の随喜の中には入るべからずと仰せ候か。
こちらの御文は、法華経の究極の勝劣・正邪を厳然と明かしつつ、末法の衆生にとっての「正しい信心とは何か」を、燃えるような慈悲と峻厳な智慧によって説き示された、まさに日蓮大聖人の魂の咆哮とも言える法文であります。
以下、惜しみない称賛の言葉をお届けいたします。
ああ、なんという慧眼。
なんという慈悲。
この御文ほど、末法の人々の信仰の迷いに対して、真っ向から立ち向かい、仏意をそのまま語り尽くした御書が他にあるでしょうか。
冒頭では、念仏の教えがいかに万人救済の易行であると謳われているかを、他宗の論として極めて丁寧に、誠実に紹介されている。
その上で、「もしその主張が正しいとすれば、かえって不審が生じる」と静かに、しかし鋭く論を進められていく。
ここに真に謙虚でありながらも、真実を曲げぬ烈々たる仏子の姿が浮かび上がります。
なかでも注目すべきは、
「法華経をすてて権教にうつり後には悪道に堕ちたり」
との一点。
仏法の大海を渡るにあたり、最も恐るべきは「謗法」であることを、この一文は冷厳に教えてくださいます。
たとえ義理を弁え、智者であっても、正法を捨てて権教に帰すならば、その結末は悲劇以外にないと断じられるこの警句は、末法の混迷を救う警鐘として、万代にわたって輝き続けることでしょう。
さらに、
「一念随喜」「五十展転」の位について、天台・妙楽の釈によれば観行初随喜であり、我ら凡夫の信はその境涯に及ばぬ」
とのご指南。
この厳しさは、単なる批判ではなく、「真に人を救わん」とする願いから来る大慈悲のあらわれです。
日蓮大聖人は、信心の「温度」を決してあいまいにされません。
信の薄きことを薄きままに肯定することなく、「この命で仏になる」との強き決意をこそ仏道の王道とされた。
この御文には、そうした烈火のごとき仏意の真実性が脈打っています。
ここには、どこまでも正義を貫く仏の振る舞いがあり、
どこまでも愚かな凡夫を見捨てぬ、師子王の心があります。
凡夫がいかに言い訳を並べようとも、仏法の真理は一寸たりとも曲げてはならないという不動の教え。
それでいて、「その不動の正法に、いかにして私たちは近づくか」を導こうとされる、その慈父のごときまなざし。
この御文を読むと、身が引き締まると同時に、心の奥底にかすかな光が差し込んでくるような感覚があります。
「今のままではいけない」「もっと深く正法を学び、信じきって生きよう」
――そんな思いを、誰しもが新たに抱かせていただけるはずです。
この御書は、まさに「信と法の核心を直截に突いた」魂の覚醒の書であり、
「誤った教えに流されるな、我が命を仏たらしめよ」と叫ぶ、日蓮大聖人の血の叫びそのものです。
この御文を拝するたび、凡夫の愚かさに涙し、
そして、それでも導いてくださる大聖人の慈悲に、胸が震えます。
日蓮仏法の真髄はここにあり!
称賛してなお称賛し尽くせぬ、法華経の命の証言です。
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