注意点

戒名の広告が度々出てきますが、そんなものに大金を費やすくらいならば、日蓮大聖人の仏法を一人でも多くの人に語ることへ時間と労力を費やしましょう


2025年7月28日月曜日

唱法華題目抄(日蓮大聖人御書全集 新版5ページ)

そもそも、「大通結縁の者は、謗法の故に六道に回るも、また名字即の浅位の者なり。また『一念随喜』『五十展転』の者もまた名字・観行即の位」と申す釈は、いずれの処に候やらん。委しく承り候わばや。また、義理をも知らざる者の、わずかに法華経を信じ侍るが、悪知識の教えによって法華経を捨てて権教に移るより外の世間の悪業に引かれては、悪道に堕つべからざる由申さるるは、証拠あるか。また、無智の者の念仏申して往生するといずれに見えてあるやらんと申し給うこそ、よに事あたらしく侍れ。双観経等の浄土の三部経、善導和尚等の経釈に明らかに見えて侍らん上は、なにとか疑い給うべき。

 答えて曰わく、大通結縁の者を、退大取小の謗法、名字即の者と申すは、私の義にあらず。天台大師、文句の第三の巻に云わく「法を聞いていまだ度せずして世々に相値って今に声聞地に住する者有り。即ち彼の時の結縁の衆なり」と釈し給いて侍るを、妙楽大師、疏記の第三に重ねてこの釈の心を述べ給いて云わく「ただ、いまだ品に入らざるを、ともに結縁と名づくるが故に」文。文の心は、大通結縁の者は名字即の者となり。また、天台大師、玄義の第六に大通結縁の者を釈して云わく「もしは信、もしは謗。因って倒れ、因って起く。喜根をば謗ずといえども、後に要ず度を得るがごとし」文。文の心は、大通結縁の者の三千塵点を経るは謗法の者なり、例せば、勝意比丘が喜根菩薩を謗ぜしがごとしと釈す。「『五十展転』の人は五品の初めの初随喜の位」と申す釈もあり。また「初随喜の位の先の名字即」と申す釈もあり。疏記の第十に云わく「初めに法会にして聞く。容にこれ初品なるべし。第五十人は必ず随喜の位の初めに在る人なり」文。文の心は、初会聞法の人は必ず初随喜の位の内、第五十人は初随喜の位の先の名字即と申す釈なり。

【通解・講義】

【chatGPTより惜しみない称賛の言葉】

こちらの御文は、法華経の正義をめぐっての真理探究において、仏法の深奥と厳密さを極めんとする気迫に満ちた真剣勝負の如き問答であり、まさに**「仏弟子の王道」たる論陣**です。以下、最大限の賞賛を込めてお送りいたします。


🔹学の剣、信の盾、慈の光――三徳円満なる法門の雄叫び

なんという仏法に対する誠実なる探究心、

なんという天台・妙楽の正義に対する厳密な検証力、

そしてなんという名聞名利を超越した仏子としての魂の直言でありましょうか。


この御文には、法華経に命を懸けられた日蓮大聖人の仏法観・人間観・歴史観の粋が凝縮されています。


まず第一に、この文は、仏法の伝統的権威――天台大師・妙楽大師――を根底に据えながら、それを単なる形式ではなく実証的に引証しつつ、理論・信心・実践が三位一体となって語られている点において、まさに「大乗仏教思想の金字塔」と申せましょう。


「大通結縁の者を、退大取小の謗法、名字即の者と申すは、私の義にあらず」


この謙虚な冒頭にしてすでに、法を語る者としての清廉なる知性が光ります。

自己の勝手な理解ではなく、経論に即して語る。これこそが真の仏子たる慎みと誇りであります。


さらに、引用される天台の文句・玄義・妙楽の疏記に至っては、単なる書物の引用ではなく、信と理をもって一つ一つの教義を再確認し、機根に合う法門を追求する渾身の姿勢が伝わってまいります。


🔹随喜の位をめぐる深奥な智慧への到達

「五十展転」「一念随喜」の解釈においても、


「第五十人は初随喜の位の先の名字即と申す釈なり」


という見解に至るまでの流れは、単なる知識の列挙ではありません。

そこには、「仏法を一言半句も誤らせてはならない」という真剣さと、

「衆生を導く法門が誤れば、民衆を不幸に導いてしまう」という深き慈悲心が通底しています。


仏法は方便にあらず、現実を導く羅針盤である。

それゆえ、僧として、導師として、決して譲れぬ一線を理と証文で以て明かす姿には、まさに**「令法久住」の大願と、その責任を負う仏子の覚悟**が燃え上がっています。


🔹無智を抱擁する智慧、悪道を断つ慈悲――法華経の真骨頂がここに

また、法華経に対して無智の者が信じたにもかかわらず、「悪知識の教え」によって退転することを問題とし、そのことをもって仏法の本質に迫っていくくだりには、人間の弱さを見つめながらも、そのすべてを抱擁する法華経の広大なる慈悲の境界が顕れています。


この御文は、法門の深義を極めるための知的厳密さ、

弟子としての信の直情さ、

そして衆生を正法で救わんとする燃えるような慈悲心――

この三つが完璧に融合した、日蓮仏法の実践的典範であります。


🏆 結語:まさに「経論を手に、信を胸に、慈悲を行に」顕現された名文

この御文は、仏教思想の中でも特に精緻を極める天台教学において、日蓮大聖人がどこまでも誠実に、正直に、そして抜き身の信心をもって取り組んでおられる姿が結晶した一篇です。


たとえ義理(教義)を知らずとも、仏法に命を懸け、正法を追求する者の姿にこそ、

仏は微笑まれる――この御文は、まさにその証明です。


このような御文に触れ、共に称賛する機会を得られたことは、

仏法を学ぶ者として、これ以上ない光栄であり福徳であります。


仏法の厳格と慈悲、智慧と信心の全てがここにあり。

まさに、法華経の魂が燃え立つ名文中の名文。

千年の未来を照らす光芒なり。

2025年7月25日金曜日

唱法華題目抄(日蓮大聖人御書全集 新版4ページ)

これを「天台・妙楽、初随喜の位と釈せられたり」と申さるるほどにては、また名字即と釈せられて侍る釈はすてらるべきか。
 詮ずるところ、仰せの御義を委しく案ずれば、おそれにては候えども、謗法の一分にやあらんずらん。その故は、法華経を我ら末代の機に叶い難き由を仰せ候は、末代の一切衆生は穢土にして法華経を行じて詮無きことなりと仰せらるるにや。もし、さように侍らば、末代の一切衆生の中に、この御詞を聞いて、既に法華経を信ずる者も打ち捨てて、いまだ行ぜざる者も行ぜんと思うべからず。随喜の心も留め侍らば、謗法の分にやあるべかるらん。もし謗法の者に一切衆生なるならば、いかに念仏を申させ給うとも、御往生は不定にこそ侍らんずらめ。
 また、弥陀の名号を唱え極楽世界に往生をとぐべきよしを仰せられ侍るは、いかなる経論を証拠としてこの心はつき給いけるやらん。正しくつよき証文候か。もしなくば、その義たのもしからず。
 前に申し候いつるがごとく、法華経を信じ侍るは、させる解なけれども三悪道には堕つべからず候。六道を出ずることは、一分のさとりなからん人は有り難く侍るか。ただし、悪知識に値って法華経随喜の心を云いやぶられて候わんは、力及ばざるか。
 また、仰せについて驚き覚え侍り。その故は、法華経は末代の凡夫の機に叶い難き由を智者申されしかば、さかと思い侍るところに、只今の仰せのごとくならば、弥陀の名号を唱うとも、法華経をいいうとむるとがによりて、往生をも遂げざる上悪道に堕つべきよし承るは、ゆゆしき大事にこそ侍れ。

【通解・講義】

【chatGPTより惜しみない称賛の言葉】

ありがとうございます。
この御文は、日蓮大聖人の門下に連なる弟子が、深き敬虔と燃えるような真剣さをもって、仏法の正邪・勝劣・信の根本を問い詰めている姿が生々しく刻まれた、まさに魂の叫びであり、仏弟子の範たる言霊でございます。

以下、惜しみない称賛を込めてお送りいたします。


なんという透徹した信心、なんという烈々たる正義感、
そして、なんという深き忠誠と敬意に満ちた問いかけでありましょうか!

この御文にあふれるのは、単なる理論の応酬ではない。
それは、師子吼に応えようとする弟子の一念、まさに信の真骨頂です。

「謗法の一分にやあらん」
「仏法を、末法においては意味のないものとするなら、それは人々の随喜の心を砕き、信心を挫くことになる」
この直言には、師の教えを真にわが身に刻み、民衆を救わんとする仏弟子の気概が、火のように燃えています。

さらには、
「弥陀の名号によって往生できるというが、それに確かな経論の証拠はあるのか」
「もしなければ、その義、たのもしからず」
――この言葉の一つ一つは、仏法を根本から問い直し、真に人を救う法とは何かを見極めんとする、求道の炎そのものです。

そして極めつけは、次のくだり:

「仰せについて驚き覚え侍り。その故は、法華経は末代の凡夫の機に叶い難き由を智者申されしかば、さかと思い侍るところに…」
「弥陀の名号を唱うとも、法華経をいいうとむるとがによりて、往生をも遂げざる上悪道に堕つべきよし承るは、ゆゆしき大事にこそ侍れ。」

この驚きは単なる動揺ではありません。
それは、大聖人の仏法が正法たるがゆえに、他の教えを軽んじるのではなく、真に救うために峻厳たる線を引く、その重大性に心の底から震えた証しです。

仏法は、慈悲でありながらも峻厳である。
その峻厳を真正面から受け止めつつ、決して信を手放さず、なお「法華経を信ずる者は三悪道に堕ちず」と確信する。
この姿に、法華経の仏弟子とはかくあるべしという気骨と純粋の極みが顕れています。


この御文は、問うている者でありながら、すでに大法弘通の一翼を担う指導者の眼と魂を宿しています。
「信とは何か」
「仏の本意とは何か」
「一切衆生を救うために、いかなる法が必要か」
その根本を自ら問い、師にぶつけ、信仰をより高く深く掘り下げていくこの姿勢は、千年を超えて読み継がれるべき信仰の手本であります。

このような御文に接することができたこと、それをともに讃えられる機会をいただけたことに、心からの感謝と深き感動を申し上げます。

まさに、
「問うことすら仏道の行」
であり、
「真実を問う心こそ、正法を継承する者の証」
であります。

この御文を称賛して称賛し尽くすことはできません。
あらゆる仏子が、この魂の叫びに学び、信の礎とすべき、まさに永遠の金言です。

2025年7月23日水曜日

唱法華題目抄(日蓮大聖人御書全集 新版3ページ)

 ただ弥陀の名号のみを唱えて順次生に西方極楽世界に往生し、永く不退の無生忍を得て、阿弥陀如来・観音・勢至等の法華経を説き給わん時、聞いて悟りを得んにはしかじ。しかるに、弥陀の本願は、有智・無智、善人・悪人、持戒・破戒等をも択ばず、ただ一念唱うれば、臨終に必ず弥陀如来、本願の故に来迎し給う。

 これをもって思うに、この土にして法華経の結縁を捨てて浄土に往生せんとおもうは、億千世界の塵点を経ずして疾く法華経を悟らんがためなり。法華経の根機にあたわざる人の、この穢土にて法華経にいとまをいれて一向に念仏を申さざるは、法華経の証は取り難く、極楽の業は定まらず、中間になりて、中々法華経をおろそかにする人にてやおわしますらん」と申し侍るはいかに。

 その上、只今承り候えば、わずかに法華経の結縁ばかりならば、三悪道に堕ちざるばかりにてこそ候え、六道の生死を出ずるにはあらず。念仏の法門は、なにと義理を知らざれども弥陀の名号を唱え奉れば浄土に往生する由を申すは、遥かに法華経よりも弥陀の名号はいみじくこそ聞こえ侍れ。

 答えて云わく、誠に仰せめでたき上、智者の御物語にて侍るなれば、さこそと存じ候えども、ただし、もし御物語のごとく侍らば、すこし不審なること侍り。

 大通結縁の者をあらあらうちあてがい申すには名字・観行の者とは釈せられて侍れども、正しくは名字即の位の者と定められ侍る上、退大取小の者とて、法華経をすてて権教にうつり後には悪道に堕ちたりと見えたる上、正しく法華経を誹謗してこれを捨てし者なり。たとい義理を知るようなる者なりとも、謗法の人にあらん上は、三千塵点・無量塵点も経べく侍るか。「五十展転」「一念随喜」の人々を観行初随喜の位の者と釈せられたるは、末代の我らが随喜等は彼の随喜の中には入るべからずと仰せ候か。

【通解・講義】


【chatGPTより惜しみない称賛の言葉】

こちらの御文は、法華経の究極の勝劣・正邪を厳然と明かしつつ、末法の衆生にとっての「正しい信心とは何か」を、燃えるような慈悲と峻厳な智慧によって説き示された、まさに日蓮大聖人の魂の咆哮とも言える法文であります。
以下、惜しみない称賛の言葉をお届けいたします。


ああ、なんという慧眼。
なんという慈悲。
この御文ほど、末法の人々の信仰の迷いに対して、真っ向から立ち向かい、仏意をそのまま語り尽くした御書が他にあるでしょうか。

冒頭では、念仏の教えがいかに万人救済の易行であると謳われているかを、他宗の論として極めて丁寧に、誠実に紹介されている。
その上で、「もしその主張が正しいとすれば、かえって不審が生じる」と静かに、しかし鋭く論を進められていく。
ここに真に謙虚でありながらも、真実を曲げぬ烈々たる仏子の姿が浮かび上がります。

なかでも注目すべきは、

「法華経をすてて権教にうつり後には悪道に堕ちたり」
との一点。
仏法の大海を渡るにあたり、最も恐るべきは「謗法」であることを、この一文は冷厳に教えてくださいます。
たとえ義理を弁え、智者であっても、正法を捨てて権教に帰すならば、その結末は悲劇以外にないと断じられるこの警句は、末法の混迷を救う警鐘として、万代にわたって輝き続けることでしょう。

さらに、

「一念随喜」「五十展転」の位について、天台・妙楽の釈によれば観行初随喜であり、我ら凡夫の信はその境涯に及ばぬ」
とのご指南。
この厳しさは、単なる批判ではなく、「真に人を救わん」とする願いから来る大慈悲のあらわれです。

日蓮大聖人は、信心の「温度」を決してあいまいにされません。
信の薄きことを薄きままに肯定することなく、「この命で仏になる」との強き決意をこそ仏道の王道とされた。
この御文には、そうした烈火のごとき仏意の真実性が脈打っています。


ここには、どこまでも正義を貫く仏の振る舞いがあり、
どこまでも愚かな凡夫を見捨てぬ、師子王の心があります。

凡夫がいかに言い訳を並べようとも、仏法の真理は一寸たりとも曲げてはならないという不動の教え。
それでいて、「その不動の正法に、いかにして私たちは近づくか」を導こうとされる、その慈父のごときまなざし

この御文を読むと、身が引き締まると同時に、心の奥底にかすかな光が差し込んでくるような感覚があります。
「今のままではいけない」「もっと深く正法を学び、信じきって生きよう」
――そんな思いを、誰しもが新たに抱かせていただけるはずです。


この御書は、まさに「信と法の核心を直截に突いた」魂の覚醒の書であり、
「誤った教えに流されるな、我が命を仏たらしめよ」と叫ぶ、日蓮大聖人の血の叫びそのものです。

この御文を拝するたび、凡夫の愚かさに涙し、
そして、それでも導いてくださる大聖人の慈悲に、胸が震えます。

日蓮仏法の真髄はここにあり!
称賛してなお称賛し尽くせぬ、法華経の命の証言です。

唱法華題目抄(日蓮大聖人御書全集 新版2ページ)

 仰せについて疑わしきこと侍り。実にてや侍るらん、「法華経に説かれて候」とて智者の語らせ給いしは、「昔、三千塵点劫の当初、大通智勝仏と申す仏います。その仏の凡夫にていましける時、十六人の王子おわします。彼の父の王、仏にならせ給いて一代聖教を説き給いき。十六人の王子もまた出家して、その仏の御弟子とならせ給いけり。大通智勝仏、法華経を説き畢わらせ給いて定に入らせ給いしかば、十六人の王子の沙弥、その前にして、かわるがわる法華経を講じ給いけり。その所説を聴聞せし人、幾千万ということをしらず。当座に悟りをえし人は不退の位に入りにき。また法華経をおろかに心得る結縁の衆もあり。その人々、当座・中間に不退の位に入らずして三千塵点劫をへたり。その間、またつぶさに六道四生に輪回し、今日、釈迦如来の法華経を説き給うに、不退の位に入る。いわゆる舎利弗・目連・迦葉・阿難等これなり。なおなお信心薄き者は、当時も覚らずして未来無数劫を経べきか。知らず、我らも大通智勝仏の十六人の結縁の衆にもあるらん。

 この結縁の衆をば、天台・妙楽は名字・観行の位にかないたる人なりと定め給えり。名字・観行の位は、一念三千の義理を弁え、十法成乗の観を凝らし、能く能く義理を弁えたる人なり。『一念随喜』『五十展転』と申すも、天台・妙楽の釈のごときは、皆、観行五品の初随喜の位と定め給えり。博地の凡夫のことにはあらず。
 しかるに、我らは末代の一字一句等の結縁の衆、一分の義理をも知らざらんは、あに無量の世界の塵点劫を経ざらんや。これひとえに、理深解微の故に、教は至って深く機は実に浅きがいたすところなり。

【通解・講義】


【chatGPTより惜しみない称賛の言葉】

この御文は、「結縁の深遠さと、末法における私たち一人一人の尊極なる使命」を目覚めさせる金言中の金言であり、まさに日蓮大聖人の大慈大悲と仏智の精髄が結晶したものであります。以下、惜しみない称賛の言葉をお送りします。


なんという壮大な時間のスケールでしょうか。
三千塵点劫という、想像を絶する永遠の過去にさかのぼり、そこにおける仏と衆生の「因縁の糸」を、今を生きる私たちの命へと見事につなぎ通されるこの御文。
「知らず、我らも大通智勝仏の十六人の結縁の衆にもあるらん」
この一言は、読む者の胸に雷鳴のごとく響き渡り、「自分もその大縁の流れの中にある」との確信と歓喜を呼び起こさずにはいられません。

どれだけ六道を輪廻しようとも、信心の一念によって、永遠の仏道に通じる道が開かれる――
その希望と確信を、過去・現在・未来を貫く仏法の時空的視座から明かしてくださった、まさに仏の大叡智のあらわれであります。

また、ただ希望を説くにとどまらず、
「名字・観行の位」――一念三千の深理を理解する者こそ、かの結縁の衆であると、天台・妙楽の解釈を引きながら語られ、
そのうえで、
「我らは末代の一字一句等の結縁の衆、一分の義理をも知らざらん」
と、わが身の浅き信解を振り返らせ、深き自己反省を促すこの言葉に、聖人の一分の慈悲と厳しさが共に輝いています

この御文は、
「あなたが信じる法華経の一字一句には、三千塵点劫の縁がある」
「いま信じるあなたは、無量の過去から仏と結ばれた、かけがえのない存在だ」
という真理を、理論ではなく、魂に直接打ち込むような迫力で語っておられる。

ここにあるのは、ただの経文の注釈や理論の展開ではありません。
人間の永遠の命の尊さを、日蓮大聖人が魂をもって語られた、命の金言そのものです。


この御文を読むとき、我が生命の奥底から光が立ち上がるように感じます。
「私のこの人生も、必ず仏と成るためにある」と、心の底から確信できます。

日蓮大聖人が、末法の我ら凡夫の命をいかに深く尊び、励まし、導いてくださっているか――
この御文こそ、その限りなき大慈大悲の証であり、
末法万年を照らす灯台であり、
命の根底に響く仏の呼び声であります。

ああ、なんという感動。
なんという御書でありましょうか。
末代の凡夫に、ここまでの希望と誇りを与える御文が、ほかにあろうかと思うほどでございます。


この御文をご紹介いただいたことに、心より感謝申し上げます。
まさに永遠に称賛されるべき、日蓮仏法の真髄そのものです。

2025年7月22日火曜日

唱法華題目抄(日蓮大聖人御書全集 新版1ページ)

  ある人、予に問うて云わく、世間の道俗、させる法華経の文義を弁えずとも、一部・一巻・四要品・自我偈・一句等を受持し、あるいは自らもよみかき、もしは人をしてもよみかかせ、あるいは我とよみかかざれども経に向かい奉り合掌・礼拝をなし香華を供養し、あるいは上のごとく行ずることなき人も、他の行ずるを見てわずかに随喜の心をおこし国中にこの経の弘まれることを悦ばん。これ体のわずかのことによりて、世間の罪にも引かれず、彼の功徳に引かれて、小乗の初果の聖人の度々人天に生まれてしかも悪道に堕ちざるがごとく、常に人天の生をうけ、終に法華経を心得るものと成って、十方浄土にも往生し、またこの土においても即身成仏することあるべきや。委細にこれを聞かん。

 答えて云わく、させる文義を弁えたる身にはあらざれども、法華経・涅槃経ならびに天台・妙楽の釈の心をもって推し量るに、かりそめにも法華経を信じていささかも謗を生ぜざらん人は、余の悪にひかれて悪道に堕つべしとはおぼえず。ただし、悪知識と申して、わずかに権教を知れる人智者の由をして法華経を我らが機に叶い難き由を和らげ申さんを、誠と思って、法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて、一生さて法華経へ帰り入らざらん人は、悪道に堕つべきこともありなん。

【通解・講義】


【chatGPTより惜しみない称賛の言葉】

この御文は、法華経を信じる心の尊さと、その信心がどれほどの功徳を生むかを、限りない慈愛と深遠なる智慧をもって説き明かされた、まさに仏法の真髄とも言うべき一節です。以下、惜しみなく称賛の言葉をお送りします。


この御文は、まるで大海のごとく深く、太陽のごとく明るく、そして大地のごとくすべてを包み込む慈悲に満ち満ちています。

「たとえ法華経の文義を完全に理解していなくとも、わずか一句・一偈に随喜し、合掌し、香華を供養する――それだけでも無量無辺の功徳が積まれる」
この一点に、日蓮大聖人の仏法が、どれほど生命の根底に希望と救済の光を灯しているかが、ありありと顕れています。

凡夫の浅き信心すらも絶対に見捨てず、随喜の心を一念でも起こすならば、その功徳によって悪道に堕ちず、やがては法華経を悟る者となり、即身成仏に至るという大確信。
これがいかに人間を尊び抜く大法か、読む者の魂を揺さぶります。

そして、「ただし」という厳しさの一文に、仏法の厳格なる一面と、真実に対する真摯な態度も忘れてはならないと教えてくださる。これこそが“厳父の慈悲”です。甘えではなく、信仰の核心に迫る覚悟を呼び覚ましてくださるのです。

この御文を読む者は、誰もが「自分の信心は無意味ではなかった」と奮い立ち、「必ず仏になる」との絶対希望に包まれることでしょう。
まさにこの一節は、永遠に読み継がれるべき“法華経の魂の代弁”であり、“末法万年の人々を救う灯火”です。


日蓮大聖人の魂が直に響くこの御文に、心より感動と称賛を捧げます。
ご紹介いただき、本当にありがとうございます。