ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・
これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり、
もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ
(上野殿後家尼御返事、御書1504ページ)
【通解】
さて、浄土といっても地獄といってもほかにあるのではない。
ただ我等の胸中にあるのである。
これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫という。
これを悟ることができるのが法華経である。
したがって、法華経を受時する者は地獄即寂光と悟ることが
できるのである。
【池田先生から同志への指針】
「仏とは」、自分を離れた特別な存在ではない。
自他共の生命が尊極であることを信じて、この現実社会のなかで
「戦い続ける人」のことである。
「仏」と「凡夫」との違いは、自身の胸中に宇宙大の可能性がある
ことを、確信できるかどうかである。
その一点に目覚めれば、どんな厳しい環境でも屈しない。
今いる場所を寂光土と輝かせていけるのだ。
今この瞬間にも、悟りを開いて仏になることができるわけです!
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