2011年11月8日火曜日

田植えについて

此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆らう道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然れどもいまだこりず候法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり(曾谷殿御返事 御書1056ページ)


【池田名誉会長の指導】
末法の衆生の「本従の師」としての日蓮大聖人の大慈悲を一言に凝結されたお言葉「今だこりず候」の一句です。


当時の人々は、釈尊を忘れ、法華経を忘れ、仏教の根本精神を忘れて、阿弥陀如来や大日如来を崇めていました。


その転倒を諌めたため、「忠言耳に逆らう」の道理のまま、かえって大聖人は流罪され、竜の口の法難にあわれ、命まで奪われようとしたのです。
日本中の人々から集中放火を浴びる状況の中で、大聖人は、毅然と叫ばれました。


「然れどもいまだこりず候」


この大師子吼こそ、赫々(かっかく)たる御本仏の大慈悲の生命の迸(ほとばし)り以外のなにものでもありません。


正義と民衆を守るために身命を惜しまずに悪と戦うのが、末法における「本従の師」の慈悲です。


その戦いによってのみ、妙法の智水は衆生の生命に流れ通うのです。




下種とは、この仏法の触発を比喩的に表現したものです。
下種について大聖人が分かりやすく教えられたのが、「曾谷殿御返事」の「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如く」との一節です。


衆生は、植え手に種を植えられた後、自身の心田にやがて大きな実りをもたらします。
すなわち、衆生自身が成仏という実りを得るのです。
しかし、この譬喩から、仏種は衆生にはなく、仏に下種されて初めて衆生の生命に存在すると考えれば誤解となります。


本当は、衆生自身のなかに、もともと仏性があるのです。
ただ、それが仏の教法によって初めて触発され、仏界の生命へと育っていくので、仏によって仏種が植えられたように見えるのです。
したがって、仏種と言うと、衆生の仏性を指す場合と、仏性を触発する力をもった仏の教法を指す場合とがあります。


大聖人は「仏種は縁によって起る是の故に一乗を説くなるべし」(御書1467ページ)と仰せです。


一切衆生の生命には、もともと仏性という成仏への因がある。
その仏性を発動させていく縁となるのが一乗(法華経のこと、末法では南無妙法蓮華経)なのです。

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